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情報工学 番外編|第6回 重要インフラと量子時代のサイバーセキュリティ
電力、水道、交通、製造設備などの重要インフラでは、コンピュータによる情報処理が、機器の監視や制御を通じて物理的な動作へつながっている。
こうした環境では、設備を長期間使用すること、停止できる時間が限られること、旧式の機器や通信方式が残りやすいことから、一般的な情報システムと同じ方法や速度でセキュリティ対策を更新できるとは限らない。量子コンピュータの発展に備えた暗号方式の移行でも、この違いが大きな課題となる。
6.1 重要インフラを支えるCPS・OT・ICS
重要インフラでは、情報を扱うシステムと、設備の状態を計測・制御するシステムが組み合わされている。この構造を理解するために、重要インフラ(CI)、サイバーフィジカルシステム(CPS)、運用技術(OT)、産業制御システム(ICS)という用語が用いられる。
表6-1 重要インフラと制御システムに関する用語
| 用語 | 本記事での意味 |
| 重要インフラ(CI) | 電力、水道、交通、産業設備など、社会や経済の継続に関係する基盤 |
| サイバーフィジカルシステム(CPS) | 計算、通信、センサー、制御対象となる物理的な機器や工程を組み合わせたシステム |
| 運用技術(OT) | 機器や工程の状態を監視し、物理的な動作を制御するための技術 |
| 産業制御システム(ICS) | 工場やインフラ設備などで、産業プロセスの監視・制御に用いられるシステム |
これらは別々に存在するとは限らない。重要インフラの中で、OTやICSが設備を制御し、それらが通信ネットワークや情報システムと接続されることでCPSを構成する場合がある。
6.2 重要インフラのセキュリティが難しい理由
重要インフラを構成する機器は、長期間にわたって使用される場合がある。設備の一部だけを短期間で交換できるとは限らず、古い通信方式や、現在とは異なる前提で設計された機器が残りやすい。
また、設備を停止して更新作業を行える時期は限られる。ソフトウェアを更新できても、制御の遅延や安全性の確認が必要となるため、情報システムの更新と同じようには進められない。
さらに、機器の処理能力やメモリが限られている場合には、新しい暗号処理や監視機能を追加する余裕が小さい。暗号方式が機器へ固定的に組み込まれている場合は、設定やソフトウェアの変更だけでは対応できず、機器の交換が必要になる可能性もある。
6.3 サイバー空間と物理的な工程のつながり
CPSやOTは、情報処理と物理設備を結び付け、物理的な工程の自動化、監視、制御を担う。
重要インフラは、単一の装置だけで完結するものではない。センサー、制御装置、通信ネットワーク、監視システムなどが相互に接続されている。この接続によって運用効率が向上する一方、保護すべき範囲も広がる。
そのため、対策では一つの機器の安全性だけでなく、機器間の依存関係、通信が失われた場合の動作、障害発生時の復旧方法まで含めて考える必要がある。
6.4 量子コンピュータが暗号へ与える影響
量子コンピュータの発展によって問題となるのは、現在利用されている公開鍵暗号の一部が、将来の十分な能力を持つ量子コンピュータによって破られる可能性があることである。
公開鍵暗号は、通信相手との鍵の共有、電子署名、ソフトウェアやファームウェアの更新確認などに利用されている。RSAや楕円曲線暗号など、量子計算に対して脆弱となる公開鍵暗号がどのシステムで使われているかを把握することが、移行の出発点となる。
ただし、量子コンピュータによって現在の重要インフラの暗号が直ちにすべて破られるという意味ではない。問題は、長期間使用する設備や長期間秘密にする必要がある情報を、将来の脅威へ間に合うよう計画的に移行できるかにある。
6.5 今取得し、後で解読する脅威
量子コンピュータによる暗号解読能力が将来実現することを前提として、暗号化された情報を現在のうちに取得・保存し、後になって解読する考え方は、Harvest Now, Decrypt Later(HNDL)と呼ばれる。
この脅威では、現在すぐに内容を読めなくても、将来まで秘密にする必要がある情報であれば攻撃対象となり得る。情報を保護しなければならない期間と、耐量子暗号への移行に必要な期間を併せて考える必要がある。
重要インフラでは、設備自体も長期間使用される。現在導入する機器が将来も稼働している可能性があるため、通信や認証だけでなく、ソフトウェア更新の署名確認などに使われる暗号方式も移行対象となる。
6.6 耐量子計算機暗号
耐量子計算機暗号(Post-Quantum Cryptography:PQC)は、将来の量子コンピュータによる攻撃へ耐えることを目的として設計され、現在の製品や通信システムへの導入が進められている暗号方式である。
NISTは、鍵の確立と電子署名に用いる3件の耐量子計算機暗号規格を承認している。
表6-2 NISTが承認した耐量子計算機暗号規格
| 規格 | 名称 | 主な用途 |
| FIPS 203 | Module-Lattice-Based Key-Encapsulation Mechanism Standard(ML-KEM) | 公開された通信路を通じて共有秘密鍵を確立するための鍵カプセル化 |
| FIPS 204 | Module-Lattice-Based Digital Signature Standard(ML-DSA) | データの改変検知と署名者の認証に用いる電子署名 |
| FIPS 205 | Stateless Hash-Based Digital Signature Standard(SLH-DSA) | ハッシュ関数を基礎とする電子署名 |
規格が利用可能になったことと、既存設備の移行が完了したことは同じではない。どの製品や通信方式が対応できるのかを確認し、既存システムへの影響を評価しながら導入する必要がある。
6.7 OTでは暗号の置き換えが難しい
耐量子計算機暗号は、既存方式と比べて計算上の負荷が生じる。一般的な情報システムで利用できる方式であっても、処理能力や通信帯域が限られ、厳しい応答時間が求められるOT機器で同じように利用できるとは限らない。
また、重要インフラでは、暗号方式を変更した後も設備の可用性と制御の安定性を維持する必要がある。新しい暗号方式の導入によって通信や制御が遅延すれば、暗号上の安全性とは別の運用上の問題が生じる可能性がある。
機器の認証や更新に使用する暗号方式がハードウェアへ固定されている場合、移行には機器の交換が必要となる。長い設備寿命、保守時期、適合性の確認、調達先の対応状況を含めて移行計画を立てる必要がある。
6.8 クリプトアジリティ
暗号技術の変更が必要になったとき、システム全体を作り直すことなく、使用する暗号方式や鍵を交換できる性質をクリプトアジリティという。
クリプトアジリティが確保されていれば、暗号方式の脆弱性が明らかになった場合や、規格の変更が必要になった場合に、影響する箇所を把握して置き換えやすくなる。
一方、暗号方式が機器や通信手順へ固定され、どこで使われているか把握できない構成では、移行範囲を特定すること自体が難しい。量子時代への備えでは、新しい暗号を導入するだけでなく、将来も暗号方式を変更できる構成にすることが重要となる。
6.9 量子対応ロードマップ
耐量子計算機暗号への移行は、すべての機器を一度に置き換える作業ではない。現在使用している暗号を把握し、情報や機能の重要度に応じて移行順序を決め、製品やサービスの提供者と対応時期を調整する必要がある。
表6-3 量子対応ロードマップの基本的な流れ
| 段階 | 確認する内容 |
| 管理体制の整備 | IT、OT、セキュリティ、プライバシー、調達などの関係者を含む移行体制を定める |
| 暗号資産の棚卸し | 通信方式、サーバー、端末、アプリケーション、ライブラリ、ソフトウェア・ファームウェア更新で使用する暗号を把握する |
| 優先順位付け | 情報を秘密にする必要がある期間、設備や機能の重要度、量子計算に脆弱な暗号への依存を評価する |
| 提供者との確認 | 製品、クラウドサービス、保守部品などの提供者へ、PQCへの対応方法と時期を確認する |
| 移行と検証 | 更新、設定変更、製品交換などの方法を選び、互換性、性能、運用への影響を確認する |
暗号資産の棚卸しでは、外部から見える通信だけでなく、製品内部で使われる暗号も対象となる。しかし、組み込み製品の内部にある暗号は、利用者側の調査だけでは特定できない場合がある。そのため、調達先や製造者から情報を得ることも必要となる。
6.10 研究と実装の間に残る課題
量子時代のCPS・OTセキュリティに関する研究では、用語や分類が統一されておらず、異なる研究結果を同じ基準で比較しにくいという課題がある。
また、OTやICSの通信方式へ耐量子計算機暗号を組み込んだ研究は限られている。実際の設備から得たデータも少なく、多くの検討がシミュレーションや試験環境にとどまっている。
量子コンピュータによる脅威を評価する手法である量子脅威モデリングも、十分には整っていない。規格の選択だけでなく、既存設備へ移行できるかを検証することが課題となる。
まとめ
重要インフラでは、情報システムと物理設備がCPS、OT、ICSを通じて結び付いている。長い設備寿命、限られた更新機会、旧式機器、厳しい応答時間などにより、セキュリティ対策や暗号方式の変更には一般的な情報システムとは異なる制約がある。
将来の量子コンピュータは、現在利用されている公開鍵暗号の一部へ影響を与える可能性がある。特に、長期間秘密にする必要がある情報には、現在取得した暗号化データを将来解読するHNDLの考え方も関係する。
耐量子計算機暗号への移行では、暗号資産を棚卸しし、重要度と保護期間から優先順位を定め、提供者の対応計画を確認する必要がある。既存方式を新しい方式へ置き換えるだけでなく、将来も暗号方式を変更できるクリプトアジリティを確保することが重要となる。
この記事について
参考文献
- 「Cybersecurity of Cyber-Physical Systems in the Quantum Era: A Systematic Literature Review-Based Approach」Siler Amador、César Pardo、Raúl Mazo 著
参考資料
- Cybersecurity and Infrastructure Security Agency(CISA)、National Security Agency(NSA)、National Institute of Standards and Technology(NIST)「Quantum-Readiness: Migration to Post-Quantum Cryptography」
- National Institute of Standards and Technology(NIST)「Announcing Approval of Three Federal Information Processing Standards(FIPS)for Post-Quantum Cryptography」
- National Institute of Standards and Technology(NIST)「FIPS 203, Module-Lattice-Based Key-Encapsulation Mechanism Standard」
- National Institute of Standards and Technology(NIST)「FIPS 204, Module-Lattice-Based Digital Signature Standard」
- National Institute of Standards and Technology(NIST)「FIPS 205, Stateless Hash-Based Digital Signature Standard」
(最終閲覧日:2026年10月17日)
※本記事は、上記文献を参考にしつつ、筆者の理解に基づき整理したものである。
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